大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

名古屋地方裁判所 昭和47年(ワ)919号 判決

原告

岡田志津子

外七名

右原告ら訴訟代理人弁護士

湯木邦男

右湯木邦男訴訟復代理人弁護士

村橋泰志

右同

打田千恵子

右原告ら訴訟代理人弁護士

後藤昭樹

右同

太田博之

右太田博之訴訟復代理人弁護士

立岡亘

被告

右代表者法務大臣

遠藤要

右指定代理人

多田繁

外六名

被告

愛知県

右代表者知事

鈴木礼治

右指定代理人

山口和生

外四名

被告

名古屋港管理組合

右代表者管理者名古屋市長

西尾武喜

右指定代理人

一木宏次

外四名

右被告三名訴訟代理人弁護士

水野祐一

被告

名古屋市

右代表者市長

西尾武喜

右訴訟代理人弁護士

鈴木匡

右鈴木匡訴訟復代理人弁護士

大場民男

右同

林光佑

右同

山本一道

右同

鈴木順二

被告

名古屋市昭和土地区画整理共同施行

(施行者は別紙施行者目録記載のとおり)

右代表者施行委員

大西泰助

右訴訟代理人弁護士

鈴木匡

右同

大場民男

右同

林光佑

右同

山本一道

右鈴木匡訴訟復代理人

鈴木順二

被告

日本国有鉄道

右代表者総裁

杉浦喬也

右訴訟代理人

牧野種夫

右同

牛越荘一

右同

小林義和

主文

一  原告らの被告愛知県及び同名古屋市に対する別紙物件目録記載第一の土地に関する訴を却下する。

二  原告らの被告名古屋市に対するその余の請求並びに被告国、同名古屋港管理組合、同名古屋市昭和土地区画整理共同施行、同日本国有鉄道に対する請求を各棄却する。

三  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1(一)  被告国、同愛知県、同名古屋港管理組合、同名古屋市、同名古屋市昭和土地区画整理共同施行(以下「区画整理施行者」という。)、同日本国有鉄道との関係で、別紙物件目録記載第一の土地(以下「本件第一土地」という。)が、

(二)  被告国、同名古屋市、同区画整理施行者との関係で、別紙物件目録記載第二の土地(以下「本件第二土地」という。)が、

原告らの共有(持分の割合、岡田志津子三分の二、森かね子九分の一、柳川昌子、岡田初麿、岡田徳次各一八分の一、金子政吉、金子和憲、金子健児各五四分の一)に属することを確認する。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  本案前の答弁

(一) 被告愛知県及び同名古屋市

主文第一項と同旨

(二) 被告区画整理施行者

原告らの訴を却下する。

2  本案の答弁

(一) 原告らの請求を棄却する。

(二) 訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  被告らの本案前の主張

1  被告区画整理施行者の主張

被告区画整理施行者は、土地区画整理事業の施行について、土地区画整理法により公権力を行使する権限を付与されている者であり、右権限に基づき行政処分等をなす者にすぎず、原告らの本件第二土地の所有権を争つていない。

よつて、被告区画整理施行者を相手方とする原告らの請求は本件第二土地については確認の利益を欠く。

2  被告愛知県及び同名古屋市の主張

被告愛知県及び同名古屋市は本件第一土地の所有権を主張していない。

よつて、被告愛知県及び同名古屋市を相手方とする原告らの請求は確認の利益を欠く。

二  被告らの本案前の主張に対する原告らの答弁

1  被告区画整理施行者の主張に対する原告らの答弁

争う。なお、被告区画整理施行者は本件第二土地の所有者を訴外大西政雄として扱い、右各土地が原告らの共有に属することを争つているので原告らは被告区画整理施行者との間で右各土地の共有権の確認を求める利益を有する。

2  被告愛知県及び同名古屋市の主張に対する原告らの答弁

争う。

三  請求原因

1  本件各土地の位置、範囲等

本件各土地は、庄内川の河口の東から荒子川の西に至る名古屋港に面した旧稲永新田(古くは「稲富新田」東側と「永徳新田」西側とが隣接して存在していたが、明治九年ころ両者が一体として稲永新田と称されるに至り、現在は港区稲永新田、錦町及び一州町という地名となつている。)の一部に属する土地であり、後記2、3のとおり開発管理され、明治一〇年ころ渡辺甚吉(以下「先々代甚吉」という。)と岡田初之介との共有に属し、その後後記3ないし6記載のとおりの移転を経て現在原告らの共有に属している。

なお、被告らは、本件第一土地の位置範囲が特定を欠くと主張するが、本件第一土地は地番はないが一筆の土地として存在し、本訴においては隣地所有者との境界の確定、境界付近の土地所有権の確認は争点となつていないから、紛争の解決、予防としては土地の所有権の帰属を確定すれば足り、それ以上土地の範囲を明らかにする必要はなく、請求の趣旨のとおりの特定で十分である。

2  本件各土地の開発とその所有権の取得

(一) 徳川時代、尾張藩は全国でも有数の埋立による新田開発を推進した藩であり、当初は開発主より「敷金」を徴して行つていたが、寛保二年(西暦一七四二年)にこれを一時止め、宝暦三年(一七五三年)からは「地代金」を取つて行うようになつた。その際、開発主の願出により地代金の額、その支払方法、堤の築立方法、作取年数(免除期間)及び地域などを定めて新田開発の許可がなされ、これにより開発主は新田開発権(開発後はその耕地、堤塘敷の所有権を原始的に取得する権利)を取得した。そして、右稲富新田及び永徳新田は実質上は町人によつて開発された町人請負新田である。

(二) 稲富新田について

稲富新田は、文政六年(一八二三年)、内田鋼太郎が開発許可が下り易いように、形式上は熱田神宮社家粟田兵部の名前を借用し、尾張藩に地代金を支払つて新田開発権を取得し、埋立て造成された。右内田は埋立、造成により、本件第二土地を含む稲富新田内の耕地と共にその堤塘敷である本件第一土地の一部の所有権を取得した。なお、社家には願主料として耕地の約一割の土地が与えられた。

(三) 永徳新田について

永徳新田は、天保元年(一八三二年)、小島弥五右エ門、八木屋弥兵衛、松下村の幸四郎、岡田初蔵、小右エ門、甚三右エ門らが、開発許可が下り易いように、形式上は熱田神宮神宮大喜下総外一一名の名前を借用し、尾張藩に地代金一八二円八六銭六厘六毛を支払つて新田開発許可を得、埋立て造成された。造成後、右開発者らが新田内耕地及び本件第一土地の一部の所有権を取得した。なお、神官らには願主料として一割二分の土地が与えられた。

(四) 右(二)(三)の各新田開発により、開発主は近代的所有権に相当する権利を取得したというべきである。

(1) 即ち、近代的所有権は明治維新によつて突然発生したものではなく、中世以来形成されてきた土地所有の概念が太閤検地を経て徳川時代に至つて近代的所有権と同様に観念的な土地支配権へ生成した。そして、幕藩体制下においては農民の土地支配(いわゆる「所持」「支配進退」)と領主の封建的支配(いわゆる「領知」)とが区別され、「所持する」とは直接用益することができるばかりでなく、これを売却、譲渡、質入することもできたのであつて、この意味では徳川時代の農民の土地支配権は近代的所有権と同様に観念的であつた。

(2) この点を本件第一土地にあたる堤塘についてみるに明治二年四月内田鋼太郎がその権利の持分を稲富新田内の耕地とともに先々代甚吉、酒井佐兵衛、藤屋佐吉及び岡田初蔵に譲渡し、更に、稲富新田及び永徳新田の近隣の開発新田についても、領主による開発許可の対象地域として新田耕地以外に堤塘敷が含まれていたことや新田耕地以外の堤塘敷を耕地と共にあるいは別個に取引の対象としていた。

(3) 従つて、本件第一土地である堤塘敷に対する内田鋼太郎ら実質上の開発主の権利はこれを用益する権利であるのみならず、売却処分等することのできる観念的権利であつて、右権利は民法施行前のものであるが、現行民法上の所有権と変わらない。

3  明治初年における所有権の取得

仮に前記2のとおり徳川時代に近代的な意味における所有権を開発主が取得していたとの主張が認められないとしても、明治初年近代的土地所有権が認められた時点で原告らの先代が本件第一土地に対して以下のとおり所有権を取得した。

(一) 我国における近代的所有権は、地租改正事業に付随し確立したが、国家が地租改正事業によつて創設的に土地所有権を付与したものではなく、従来実質的な土地支配権を有していた者について法的な保証として国がこれを所有権者として確認したものにすぎない。即ち、明治政府は近代国家としての財政的基盤を確立するため、地租を徴収する民有地とそれ以外の土地とを区分するため、全国の土地の官民有区分に着手し、民有の証のある土地については地券を交付したものの、実質的には民有であつても十分な証がなく、また民有の申出のない土地はすべて形式的に官有地に分類された。当時地券の発行は、人民の願出にもとづいてなされたが、右の事情から必ずしも正しく行なわれず、誤つて発行が認められないことも多かつたが、地券の交付はあくまでも所有権者を確認する行為にすぎず所有権を創設する効力を有するものではなく、とうてい行政処分とはいえない。

(二) 地籍帳(乙イ第一〇号証)に本件第一土地が官有地第三種と記載されているが、地籍帳は地租改正事業の前提として人民をして民有地の遺漏脱落がなく、面積に誤りがないかを調べさせたもの(地押丈量)にすぎず、地租改正事業に付随して民有地の確認作業の公証のため作成された「地券大帳」(のちに土地台帳へ移行した)や「官有財産台帳」、「官林台帳」等の国において公権的に作成した資料とは質的に異なり、官有地編入処分の根拠となるものではない。地租改正事業は明治一四年末までに官民有区分も含めて終了しており、右地籍帳はその後に地租改正事業の補正のため作成されたものであるにすぎない。

本件第一土地について、原告ら先代らが官有地とするよう希望したとか、改租担当官が官有であると認定したとか、地券大帳その他の官簿に官有地として記載されたとか、国が占有管理したとかの事実は全くないのであるから、本件第一土地は官有地に編入する処分の行われていないいわゆる脱落地である。

(三) 昭和五年一月二三日付訴外甚吉申請の土地区画整理施行認可申請書(乙イ第一二号証)において本件第一土地が国有地として扱われているが、これは原告ら先代らの所有であるにもかかわらず所有者であると確認されなかつたから、そのように記載されて扱われたに過ぎない。また、昭和土地区画整理設計認可申請並施行認可の件と題する書面(乙イ第一五号証)によれば、国有地たる堤塘四町七反六畝四歩のうち一町二反二四歩が宅地にされるなどの計画であつて、国有地を区画整理事業に編入した形式をとりながら、民有地に変更したのと同じ結果となつているのも、本件第一土地が国の所有に属していないことを示している。

(四) 原告ら先代らが、本件第一土地について、国有土地森林原野下戻法(以下「下戻法」という。)に基づく下戻申請をしていないが、同法は地租改正の際誤つて官有地に編入された土地につき、国有財産の整理と営林事業計画の必要から下戻申請の期限を定めたにすぎず、右申請がなかつたことによつて終局的土地所有権を失なうものではない。

また、本件第一土地は脱落地であつて、前記のとおり官民有区分がなされていないから、下戻法の対象とはらない。

(五) 内田鋼太郎ら本件第一土地の開発主らはその開発以来以下のとおり所有権の内容に最も近い強力な支配を行なつてきた。

(1) 天保六年の暴風、安政元年の地震、同二年の台風、万延元年の暴風により本件第一土地である堤塘は破損し、その都度内田鋼太郎が尾張藩の要求で修築した。ことに万延元年の暴風で右堤塘が全壊し、その後尾張藩からの再三の申付けもあつて、ようやく明治二年に至つて、右内田鋼太郎のほか先々代甚吉、酒井佐兵衛、浅井佐吉及び岡田初之介が自普請にて明治三年九月再築した。

(2) ところが明治三年九月一八日右堤塘は台風にて決壊流失したが、藩から再築を申付けられ、右岡田初之介らは自普請にて明治五年一二月修築した。

(3) 明治一〇年高潮による堤塘の大破の際にも右同様岡田初之介らがこれを修築し、その後も同一三年には同人らは汐垣を築造し、同一四年にも堤塘を自普請にて修築している。

(六) 原告らは右の維持管理の実績にもとづき、明治初期に本件第一土地を民有地とするよう願い出ており(「諸願伺届指令書類書留」、甲第二二号証)、現に同様の開発新田の堤塘につき民有地とされた例もある。

しかるに、本件第一土地については何らかの理由(例えば、明治政府の港湾政策)により、民有地として地券が発行されず、その後も土地台帳、登記簿等に記載されず、いわゆる脱落地となつたが、前記のとおりの明治政府の地租改正事業の経過に照らせば、本件第一土地の所有権は原告らの先代にその所有権が帰属したというべきである。

4  本件土地の承継

(一) 稲富新田について

右稲富新田開発後明治二年に内田鋼太郎より、その持分の一〇分の五を先々代甚吉、持分の一〇分の一宛を酒井佐兵衛、浅井佐吉、岡田初之介が買い受けた。更に、明治八年頃、一〇分の一を右岡田、一〇分の〇・五宛を右浅井と山田利兵衛が買い受けた。明治九年頃、右酒井はその持分一〇分の一全部を三井八郎右衛門に売却し、同一二年頃、右三井はその持分一〇分の一全部を右先々代甚吉に売却した。

さらに、同一三年頃、右浅井はその持分一〇分の一・五のうち一〇分の〇・二五宛を後藤栄太郎、後藤佐衛門に売却し、一〇分の〇・五宛を荒川甚衛門、服部治郎に売却した。

その後、同四一年までに右山田、荒川、服部は各その持分一〇分の〇・五全部を、右後藤栄太郎、後藤佐衛門は各その持分一〇分の〇・二五全部を右先々代甚吉に売却し、結局、右先々代甚吉が持分一〇分の八、右岡田初之介が持分一〇分の二を所有することとなつた。

以上の持分の変遷を図示すると別紙持分変遷表のとおりとなる。

(二) 永徳新田について

右永徳新田開発後、嘉永元年(一八四八年)、所有者は右小島弥五右衛門、幸四郎、先々代甚吉、岡田初蔵及び神官らに減り、さらに明治初年には、右先々代甚吉、岡田初蔵の共有となり、その持分は九割五分と五分であつた。

5  本件第二土地の所有権の帰属

本件第二土地は、明治一八年ころ旧稲永新田字そ八三〇番、一二町五反九畝八歩の一部をなしていたが、明治二〇年頃、右そ八三〇番の土地から同八三〇番の一の道路敷と同番の二の用水敷き分筆された際、本件第二土地も右そ八三〇番の土地から分筆され独立の土地となつたが、右土地には地番が付されず、その後も土地台帳への登録、登記簿への登載もなされず、無籍地となつたが、原告ら先代らが取得した土地の一部であるから、原告らの所有に属する。

6  本件第一、第二土地の相続関係

前記4記載の本件第一、第二土地に関する渡辺家及び岡田家の相続関係は以下のとおりである。

(一) 先々代甚吉は大正一四年一一月三〇日死亡し、長男渡辺栄吉こと先代甚吉(明治一二年一二月二六日生)が家督相続をし、右先代甚吉も昭和四年四月七日死亡し、長男渡辺村吉こと甚吉(明治三九年一二月二六日生)が家督相続をし、本件第一、第二土地の共有持分権を相続により取得した。

(二) 岡田初之介は大正八年一一月一六日死亡し、長男岡田初將(明治一〇年九月一三日生)が家督相続をし、同初將も昭和一五年三月二七日死亡し、長男岡田初二(明治三五年三月一五日生)が家督相続をした。

岡田初二は昭和二七年三月三日死亡したが、その後の原告らに至るまでの相続関係は以下のとおりである。

(1) 岡田初二には妻原告岡田志津子があつたが、父母、子がなかつた。そこで、右妻の相続分()を控除した残部()については父母の双方を同じくする妹である訴外久田とし子及び原告森かね子(各相続分)並びに同父異母弟妹である訴外金子尚子、原告柳川昌子、同岡田初麿及び同岡田徳次(各相続分)がそれぞれ相続した。

(2) ところで、右訴外久田とし子は、昭和四四年一二月一七日死亡し、子も父母もなかつたので、同人の相続分()について同人と父母の双方を同じくする妹原告森かね子(相続分)並びに同人の同父異母弟妹である訴外金子尚子、原告柳川昌子、同岡田初麿及び同岡田徳次(各相続分)がそれぞれ相続した。

(3) また、訴外亡金子尚子は、昭和四九年六月二七日死亡し、同人の夫原告金子政吉、同人の子原告金子健児及び金子和憲(各相続分)がそれぞれ同人を相続した。

(4) 以上により、原告らは岡田初二の相続財産についてそれぞれ原告岡田志津子三分の二、同森かね子九分の一、同柳川昌子、同岡田初麿、同岡田徳次各一八分の一、同金子政吉、同金子和憲、同金子健児各五四分の一の相続分を有していることとなる。

7  稲永新田の残地についての訴外甚吉の持分放棄

本件第一、第二土地は前記のとおり渡辺家と岡田家との共有に属していたが、昭和四七年一一月六日訴外甚吉は岡田家の子孫である原告ら六名に対し、旧稲永新田内の土地の共有持分権についてその堤防護岸に関するものを含めて一切放棄した。

したがつて、本件第一、第二土地は岡田家の子孫である原告ら六名の共有に属する土地となつた。

8  確認の利益

被告らはいずれも、原告らが本件第一、第二土地を右のとおり共有していることを争つている。

9  よつて、原告らは、被告ら全員の関係で本件第一土地及び被告国、同名古屋市、同区画整理施行者との関係で本件第二土地が原告らの共有に属することの確認を求める。

四  請求原因に対する認否

1  請求原因1について

(一) 稲永新田と称される地域が、庄内川の河口の東から荒子川の西に至る名古屋港に面した土地一帯を指称するものであることは認めるが、その歴史的変遷及び土地の範囲についての原告らの主張は知らない。

なお、原告らが本訴において共有権の確認を求める本件第一土地の位置、範囲は不明確で現地においていかなる地域がこれに該当するか特定できず、請求の趣旨としての特定を欠くため、これを確認しても、判決の既判力の及ぶ客観的範囲が不明確となつて紛争の予防、解決の目的が達せられないことになるから、原告らの本訴請求は確認の利益を欠き、主張自体失当である。

(二) 被告区画整理施行者

本件第二土地を含む旧愛知郡政寛村大字稲永新田字そ八三〇番の土地は、明治三三年五月一六日の時点で訴外先々代甚吉の単独所有であつて、その後右土地の所有権は大正四年一一月一〇日同人の家督相続人である渡辺栄吉こと訴外先代渡辺甚吉に相続により移転し、次いで昭和四年四月七日右訴外先代甚吉の家督相続人である渡辺村吉こと訴外渡辺甚吉に相続により移転し、更に、右訴外甚吉は昭和二六年六月一五日右土地を大西政雄こと訴外大西啓元に売却した。

従つて、現在右土地は右訴外大西啓元所有に属する。

2  請求原因2について

(一) 同(一)は争う。徳川時代の新田開発の形態は種々であつて開発主が一律には新田の保有者とはならなかつた。また稲富新田及び永徳新田が町人請負新田であつた資料はなく、かえつて幕末期の尾張藩の新田開発は藩営新田、藩士知行新田であることを示唆する資料もある。

また、仮に稲富新田及び永徳新田が町人請負新田であつたとしても「地代金」の性格は作取年数(無税期間)と関係のある上納金(代償)であり、新田開発許可に関し領主から付される条件にすぎない。従つて、地代金を尾張藩に納めていた事実は土地所有権の取得とは関係がない。

(二) 同(二)(三)の各事実は否認する。当時新田開発について名目的願主が認められていたとする根拠は明らかでなく、又稲富新田、永徳新田の開発について、開発主、支払われた地代金の性格、その他の具体的開発条件についてもこれを明らかにする資料は存在していない。

(三) 同(四)は争う。徳川時代の土地制度と明治以降のそれとは本質的に異なる。徳川時代における土地に対する権利は、封建的社会構造を反映して封建領主を主体とする領主的土地所有と農民を主体とする農民的土地所有とが重なりあつていた。もつとも幕末期には町人請負新田に見られるように右の農民的土地所有から分化した寄生地主的土地所有形態がこれらに加わつたが、いずれも近代社会におけるような完全な土地所有を保証するものではない。

なお原告らが稲富新田の堤塘を耕地と共に譲渡したことの根拠とする「稲永諸事留」(甲第二四号証の一ないし三)は、伝聞的間接的事実を記載した控えにすぎず、出典も作成者も明らかではなく、また近隣の開発新田の堤塘の開発及び譲渡に関する文書も、近代的土地所有権成立前に関するものであつて、いずれも原告ら主張事実の根拠となりえない。

3  請求原因3について

(一) 同(一)は争う。近代土地所有権制度のもとにおける土地所有権の帰属は官民有区分処分という行政処分及びこれを前提とした地券の発行により創設的に決定されたのであつて、地券の発行は確認的な行為ではない。即ち、明治政府は財政的基盤を確立するため、民有地を対象として地租を徴収する目的で、江戸時代の土地に対する農民的支配、領主的支配等の重複的支配(支配進退、所持)を廃し、抽象的包括的な権利としての近代的土地所有権の確立に努め、土地所有者には地券を交付することとしたが、右のとおり江戸時代の土地支配は複雑であつたため誰を所有者とするかは当然には定らず、そこで個々の土地の所有権の帰属を決定するためには一定の基準にもとづく国の作業が必要であり、これが地祖改正に伴う官民有区分処分であつた。

従つて、官民有区分処分は行政処分であつて、近代土地所有権制度のもとにおける土地所有権の帰属は右処分によつて創設的に決定され、官民有区分に関する当時の太政官布告、太政官達、地租改正条例細目、同地所処分仮規則等の定める基準によれば、本件第一土地のような堤塘については、民有の証のない土地及び除税地は原則として官有地第三種とされた。

(二) 同(二)は争う。明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号による官民有区分により全国地籍編製がなされ、愛知県においても「地籍編製心得書」(乙イ第三〇号証)による布達指令により地籍編製が行われたが、本件第一の土地を含め稲永新田の土地全般にわたつて右布達指令による地籍編製がなされた。右事実は、地租改正事業の実施に伴つて、右稲永新田の土地の地押丈量等が実際に行われ、かつ、官民有区分処分も本件第一の土地が隣接土地と同一時期になされたことを示すもので、地籍帳(乙イ第一〇号証)には、本件第一の土地は、明らかに官有地第三種と登載されており、原告らの先代も右のとおり相違ないと認めていた。そして、本件第一土地につき、地租改正条例細目第三章第一条但書に基づき番外とされ、更に、右地籍帳においては「番外一番」と表示されていたのであり、原告ら主張のように脱落地ではない。

(三) 同(三)は争う。本件第一土地は、右官民有区分処分後も官有地(国有地)として取扱われている。すなわち、原告らの先代らである渡辺甚吉申請にかかる名古屋市昭和土地区画整理事業に関する土地区画整理施行認可申請書(乙イ第一二号証)において、本件第一土地を国有地として、その国有地編入許可も合せて申請している。

同申請は、申請書の記載内容どおり認可されており(乙イ第一六号証)、原告らの先代ら及び国側は、本件第一土地を国有地として措置してきたことは動かしがたい。

(四) 同(四)は争う。下戻法は官民有区分に不服のあるものに官有地とされた土地につき下戻申請権を付与し、明治三三年六月三〇日までに右下戻申請権を行使すべきこと及び下戻申請に対する不許可処分は行政裁判所に出訴しうべきことを定めている。

即ち、下戻法は、官民有区分処分是正の唯一の方法を定めたものであるから、下戻申請期間を徒過することにより、官民有区分処分の効力は、もはやこれを争い得ない。

ところで、原告らあるいは原告ら先代らは、本件第一土地について下戻法による下戻申請をした事実はなく、仮に右官民有区分処分につき何らかの瑕疵があつたとしても明治三三年六月三〇日の経過により不可抗争となつている。

(五) 同(五)の各事実はいずれも知らない。作取年数中の堤修理等の維持管理費用の負担の性質は、新田自体に年貢が課せられないことに対応する義務負担かつ利益者負担のあらわれにすぎない。従つて、堤塘に対する修理等の費用負担は堤塘の所持とは何ら関係がない。

(六) 同(六)は争う。本件第一土地は明治初期の官民有区分処分によつて民有の証なきものとされ、官有地第三種と定められたものであり明らかに官有地である。

4  請求原因4について

いずれも知らない。

5  請求原因5について

本件第二土地は明治二〇年ころ旧稲永新田字そ八三〇番(一二町五反九畝八歩)の土地から同八三〇番の一道路敷(一反二畝四歩)と同八三〇番の二用水敷(三畝)とが分筆された際、独立の土地となつたのではなく、依然として同八三〇番の土地の一部を構成していた。現在本件第二土地は登記簿上同八三〇番の一一の土地の一部を構成している。

6  請求原因6について

いずれも知らない。

7  請求原因7について

知らない。

8  請求原因8について

(一) 被告区画整理施行者

被告区画整理施行者は前記一1記載のとおり原告らの本件第一、第二土地の所有権を争つていない。

(二) 被告愛知県、同名古屋市

被告愛知県、同名古屋市は前記一2記載のとおり本件第一土地の所有権を主張していない。

五  抗弁

1  被告国の官有地確認に基づく本件第一土地の時効取得

被告国は、稲永新田に関する地籍帳において本件第一土地が官有地第三種に属することが確認された明治一八年三月二六日より、以下のとおり右土地を自己の所有と過失なく信じ平穏かつ公然にその占有を開始し、従つて民法施行の日である明治三一年七月一六日から一〇年を経過した明治四一年七月一六日に右土地を時効取得した。仮に右の占有の始めに無過失でなかつたとしてもその後二〇年を経過した大正七年七月一六日に右土地を時効取得した。即ち、

(一) 本件第一土地たる旧堤塘は、その面積、規模の大きさからして民有地とは見られないし、地籍字分全図(乙イ第一一号証)においては、右堤塘全体が官有地と図示されている。

(二) そして、明治一三年四月太政官布告第一六号、同二四年五月二二日内務省訓令第四六二号によると堤防修理費は、府県あるいは市町村が負担すべきものとされており、実際にも、大正元年の風水害の際愛知県が修理費の支出の議決をするなど、本件第一土地を管理支配し、これを占有してきた。

(三) 更に、被告国の所有の意思についても、右堤塘は官有地であると官民双方が確認し合つている地籍帳(乙イ第一〇号証)の記載から明らかである。

(四) 被告国は、右各時効を援用する。

2  被告国の国有地編入処分に基づく本件第一土地の時効取得

仮に右主張が認められないとしても被告国は、名古屋市昭和土地区画整理事業の施行に伴い本件第一土地について国有地編入認可の告示がなされた昭和六年四月一〇日より以下のとおり右土地を自己の所有と過失なく信じ平穏かつ公然にその占有を開始し、一〇年を経過した昭和一六年四月一〇日右土地を時効取得した。

仮に右の占有の始めに無過失でなかつたとしても二〇年を経過した昭和二六年四月一〇日右土地を時効取得した。即ち、

(一) 右告示のなされた日以降本件第一土地は、区画整理事業施行に編入され、現在でも右事業は進行しており、被告国は同施行者を直接占有者として右土地を間接占有している。

(二) 被告国の所有の意思は、右土地を国有地と認めて右編入を愛知県知事が認可した事実(乙イ第一六号証)から明らかである。

(三) 被告国は、右各時効を援用する。

3  被告国の港湾管理に基づく本件第一土地の時効取得

仮に右主張が認められないとしても被告国は、被告管理組合が本件第一土地の一部を以下のとおり水域、護岸堤防敷、防潮壁敷として被告国のために代理占有(直接占有)したことに基づき、間接占有者として被告管理組合の占有態様に応じて右各部分を自己の所有と過失なく信じ平穏かつ公然にそれぞれの占有を開始し、いずれも一〇年を経過した時にそれぞれを時効取得した。仮に右の各占有の始めに無過失でなかつたとしても各部分の占有開始から二〇年を経過した時にそれぞれを時効取得した。

(一) 水域部分

本件第一土地の西側部分のうちその南側にある水域部分については、被告管理組合は、港湾法の規定により、被告国から委任事務として港湾区域たる水域の管理権能を与えられており、その行政作用として右水域に対し、港湾区域が定められた昭和二六年九月八日から、巡視、水面清掃等の維持管理行為を行い、同水域を現実に占有している。なお、港湾区域とは、「名古屋港西突堤燈台(北緯三五度二分九秒東経一三六度五一分二九秒)を中心として、七五〇〇メートルの半径を有する円内の海面、荒子川樋門、山崎川忠治橋、大江川港東橋、天白川千鳥橋、堀川朝日橋、新堀川堀止及び庄内川一色大橋各下流の河川水面並びに中川運河水面」を指し、その後、旧知多郡知多町の西方海域を編入すべく昭和四〇年二月一二日に変更されているが、いずれも本件第一土地に係る水域を含む。

(二) 護岸堤防敷部分

本件第一土地の西側部分に築立されている護岸堤防(現在では、防潮壁がこれを覆うように築かれている。)については、昭和二六年九月八日付の被告国による被告管理組合の設立許可後、国からの委任事務を含め愛知県等で行われていた名古屋港に開する行政事務は、特別地方公共団体である右組合において引き継いで行うこととなつたため、被告管理組合が右設立日以降右護岸堤防の管理、維持、修繕、復旧等の行為をなすことになり、被告管理組合は以後右護岸堤防敷を事実上支配し(乙イ第二三号証)、直接占有している。なお、右管理維持等には、一部国庫からの支出がなされている。

(三) 防潮壁敷部分

本件第一土地を東西に縦走するかたちで構築されている防潮壁については、昭和三四年台風第一五号により災害を受けた伊勢湾等に面する地域における高潮対策事業に関する特別措置法により昭和三六、七年にかけて築造されたものであり、その後も被告管理組合が維持管理等し、直接占有している。

(四) 被告国は、右各時効を援用する。

4  被告管理組合の本件第一土地の一部の時効取得

被告管理組合は、昭和三〇年一〇月一三日付契約書により被告区画整理施行者から保留地処分として被告管理組合の公有財産である稲永前鉄道の敷地の一部(本件第一土地の東側部分の南端にあたる。)を購入し、右土地を自己の所有と過失なく信じ平穏かつ公然にその占有を開始し、一〇年を経過した昭和四〇年一〇月一三日右土地を時効取得した。被告管理組合は、右時効を援用する。

5  被告国鉄の本件第一土地の一部の時効取得

被告国鉄は、昭和二四年六月一日、日本国有鉄道法の施行に伴い、本件第一土地の現状線路敷部分を従前の国有鉄道特別会計から承継し、同日右土地を自己の所有と過失なく信じ平穏かつ公然にその占有を開始し、一〇年を経過した昭和三四年六月一日右土地を時効取得した。仮に右の占有の始めに無過失でなかつたとしても二〇年を経過した昭和四四年六月一日右土地を時効取得した。被告国鉄は、右時効を援用する。

六  抗弁に対する認否

1  抗弁1の時効取得は争う。被告国による占有は否認する。被告国主張の地籍帳の記載をもつて所有の意思をもつて占有を開始したとはいえない。

(一) 同(一)は否認する。本件第一土地は、通常の規模、面積の民営堤防である。

(二) 同(二)は否認する。被告ら主張の法令から本件第一土地につき県が修繕費を負担してきたことを推認することはできない。かえつて原告ら先代らがこれを修理してきた証拠がある。県議会の議決は一部の補助金に関するものにすぎない。

(三) 同(三)は争う。

2  抗弁2の時効取得は争う。被告国の間接占有及び同区画整理施行者の直接占有を否認する。被告国主張の区画整理施行地区内に取り入れられた事実をもつて被告国が所有の意思をもつて占有を開始したとはいえない。

(一) 同(一)は否認する。被告国は占有をしていない。

(二) 同(二)は否認する。本件第一土地は民有地でありながら地券が発行されなかつた土地であつたため、被告ら主張の国有地編入の認可の告示がなされたもので、右告示をもつて被告国が占有を開始したとはいえない。

(三) 同(三)は争う。

3  抗弁3の時効取得は争う。被告国の本件第一土地に対する所有の意思ある間接占有は否認する。同(一)ないし(三)記載の被告管理組合が本件第一土地を占有していた事実は知らない。被告管理組合が管理の委任を受けたものは海面下の土地とは無関係の水域であり、堤塘敷地とは無関係の護岸工作物であつて、右工作物を構築し管理してもその敷地を占有したとはいえない。

4  抗弁4の時効取得は争う。被告管理組合主張の売買の事実は知らない。

5  抗弁5の時効取得は争う。被告国鉄主張の鉄道敷地は元国有地ではなく、被告愛知県が他の所有者からこれを取得し、被告国鉄に譲渡する協定がなされていたもので、未だ履行されていない。従つて、被告国または同国鉄がこれを所有の意思をもつて占有を開始したとはいえない。

第三  証拠関係〈省略〉

理由

第一被告らの本案前の主張について

一被告区画整理施行者の主張について

被告区画整理施行者は、土地区画整理法に基づき行政処分等をなす者であるが、同被告の施行者の中には大西政雄が含まれていることは本件記録上明らかであるところ、同被告は事実摘示中第二当事者の主張四請求原因に対する認否1(二)記載のとおり、現在本件第二土地は大西政雄こと訴外大西啓元の所有に属する旨主張するので、同被告は本件第二土地の所有権の帰属につき重大な利害を有することを自認し、原告らとの間で本件第二土地の所有権につき争つていることは明らかであるから、原告らは本件第二土地について同被告との関係で確認の利益を有しないとはいえない。

二被告愛知県、同名古屋市の主張について

被告愛知県、同名古屋市は、原告らに対して本件第一土地の所有権を主張しているものではなく、又同被告らが、現実にこれを支配し占有している事実等その所有権の帰属について法律上の利害関係にあることを認めるに足りる証拠はなく、従つて原告らが本件第一土地について、被告愛知県、同名古屋市に対してその所有権の確認を求めることは訴の利益を欠き不適法というべきである。

第二本案の主張について

一本件各土地の位置、範囲等について

〈証拠〉を総合すれば以下の事実が認められる。

(一)  本件各土地は、現在名古屋港に面し庄内川の河口の東から荒子川の西に至る名古屋市港区稲永新田、同錦町及び同一州町という地名となつている旧稲永新田に属する土地であり、旧稲永新田は明治九年ころ同新田の東側部分であつた稲富新田と西側部分であつた永徳新田とが合併して生じた。

(二)  本件第一土地は、右旧稲永新田の東側から南側にかけて位置するおよそ別紙図面のとおりの細長い土地であり(ただし、測量値は除く。)、昭和初期まで堤塘であつたが、その後更に海方向に埋立てが行われたため、現在右堤塘は殆ど現存しないが、おおよそ、右堤塘敷地を成していたその西側部分のうち南側は公有水面たる水域部分として被告管理組合の管理に係り、西側部分のうち水域でない部分には護岸堤防が築立されており、更に右護岸堤防のうえにこれを覆うかたちで一部防潮壁が構築されているが、右護岸堤防も右防潮壁も被告管理組合の管理に係るものである。また右堤塘敷地の東側部分の南端には稲永前鉄道、被告国鉄の西名古屋港線の線路の一部が敷設され、同様に、被告管理組合が公有財産として、また被告国鉄の財産として管理されている。

(三)  本件第二土地は、旧稲富新田内の土地であつて、現在右護岸施設の北側に位置する別紙図面のとおり、ほぼ四角形の土地である。なお、旧稲永新田内の土地については被告区画整理施行者によつて土地区画整理事業が進行中である。

以上の事実が認められる。

しかし、本件第一土地についてはその位置、範囲を具体的に現地において確認するに足りる証拠はない。

従つて、被告ら主張のように本件第一土地の特定に欠ける疑いがあるが、この点はしばらく措き、所有権の帰属の点について検討を進めることとする。

二徳川時代から明治時代に至る土地所有制度の成立過程について

〈証拠〉並びに弁論の全趣旨によると次の事実が認められる。

(一)  徳川時代には近代法におけるような抽象的包括的絶対的な支配権としての所有権(一物一権主義)はなく、具体的用益と不可分に結びついた所持、支配進退といわれる土地支配権があつたのであり、しかも、この土地支配権は封建的社会構造を反映して、一つの土地について年貢徴収権その他公法上の権能を含む領主的所持と現実的な耕作用益する農民的所持とが重なり合つて存在していた。そして、徳川時代末期には農民的土地支配から分化した寄生地主的土地支配がこれに加わつた。

(二)  明治維新に至り、明治政府は、明治元年一二月一八日の太政官布告によつて封建領主の土地領有を廃止し、明治五年二月一五日の太政官布告第五〇号によつて、四民(士、農、工、商)に土地の所持を許し売買の自由を認めた。

次いで、明治政府はその財政的基盤を確立するため地租改正により民有地を対象として地租を徴収する必要に迫られ(明治六年七月二八日太政官布告第二七二号「地租改正条例」の制定)、そして、右地租改正の手続過程で、従来の土地に対する複雑な封建的支配関係を廃止、整理し、従前の支配進退の実績に照らして官民有の区分をし、民有地についてはその所有者に対し地券を交付することによつて土地に対する近代的所有権を確立させるとともに地租納税義務者を確定した。

(三)  そして、官民有区分の基準及びその認定方法について、明治六年三月二五日太政官布告第一一四号「地券発行ニ付地所名称区別共更正」、明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号「地所名称区別改定」、明治七年一一月七日太政官達第一四三号「官有地民有地取調雛形」や明治八年七月八日地租改正事務局議定地租改正条例細目、同地所処分仮規則等が定められ、右「地所名称区別改定」によれば、官有地第三種は、「山岳丘陵林薮原野河海湖沼地澤溝渠堤塘道路田畑屋敷等其他民有地ニアラサルモノ……」などであり、これに対しては「地券ヲ発セス地租ヲ課セス」とされた。

そして、明治政府は各府県より個別に伺を提出せしめ、これに対応した指令を発して官民有区分の認定基準を明確化し、これによつて中央法令を補完修正した。この地租改正に関する一切の事務を掌理した地租改正事務局(明治八年三月二四日太政官達第三八号によつて設立)の指令は改租実務上の指針となり、改租手続上法規的意義をもつた。

右の指令類によれば、堤塘敷地については「人民公同の便に関するものにつき山野の類と同一の処分が相成難い」から、民有の確証のない土地はすべて官有地第三種とされ民有の確証としては民有地たることの書証が必要で、また民有の確証があつても除税地は原則として官有地第三種とされ、例外的に当該土地が従前民有地としての実績をあげており、しかも地主が民有の継続を希望する場合にのみ民有地とする旨の具体的基準が定立されていた。

(四)  地租改正事業の手続は、民有地については、土地の所有者をして地押丈量させてその結果を申告させ、これを調査決定し、改租担当官がこれを当該土地の所有者と認定したうえ、地券を交付するという方法で行われた。そのため、明治政府は明治七年一月内務省地理寮を設置し、地租改正法に基づき地籍調査を開始したが、右の地押丈量を全国的規模で統一して行わせるために、明治七年一二月二八日内務省乙第八四号「全国地籍編纂調査トシテ官員派出ニ付取調雛形」、明治九年五月二三日内務省達丙三五号「地籍編製地方官心得書」を定め、地元民をして地籍帳及び地籍図を調整せしめた。そして、地租改正事業はほとんど全国一斉に明治六年末から七年にかけて開始し、明治一四年末ひとまず終了した(愛知県における地租改正事業は明治八年六月に着手され、同一三年一一月に至り終了した。)が、地籍帳図の調整の時期は各地方によつて区々であり、明治九年から二一年に至つている。

ところが、右事業には、粗雑な点があつたため、ふたたび全国にわたり地押調査を行い、土地の丈量を正すことになり、このときも土地所有者に調査申告させる方法がとられた。このころ愛知県においても、明治七年一二月二八日内務省達乙第八四号「全国地籍編纂調査トシテ官員派出ニ付取調雛形」を更正した明治一六年四月二〇日内務省達乙第一六号をうけた明治一七年三月一七日愛知県布達乙第四四号「地籍編製心得書」による布達指令に基づき地籍編製が行われた。そうして、明治政府は、明治一八年二月大蔵大臣訓令主秘第一〇号「地押調査ノ件」を公布し、以後明治二一年まで四年にわたり地押調査事業を実施し、地租改正事業に続く集大成として、明治政府の編纂する土地の公的帳簿である土地台帳を完成させた。

(五)  こうした手続にもかかわらず、改租担当官が誤つて官有地と認定したり、所有を希望する旨の調査漏れにより民有地と認定されなかつた土地(脱落地)が生じた。そこで、明治政府は、その是正手段として、明治二三年一〇月一〇日法律第一〇五号訴願法制定請願規則廃止一条により官民有区分を訴願事項として、これをなした行政庁の上級庁への訴願を定め、同年六月三〇日法律第四八号行政裁判法一五条、同年一〇月一〇日法律第一〇六号行政裁判所ニ出訴シ得ヘキ事件五号により、これに対して行政裁判所にその取消を求めて出訴できるものとした。

しかし、請願等の不服申立が絶えない事情から右の官民有区分の効力を早期に確定させるため、明治政府は、国有土地森林原野下戻法(明治三二年法律第九九号、以下「下戻法」という。)を制定した。右下戻法は、官民有区分に不服のある者に官有地とされた土地につき下戻申請権を付与し、明治三三年六月三〇日までに下戻申請権を行使すべきこと等を定めるほか、下戻申請に対する不許可処分につき行政裁判所へ出訴しうべきことを定めている。

以上の事実が認められる。

以上認定の事実関係から要約して次のようにいうことができる。

(一) 徳川時代にはまだ近代的土地所有権はなく、明治時代になつて、政府が封建領主の土地領有を廃止し、土地の所持及び売買の自由を認め、次いで、地租改正に伴ない従前の土地支配の実績に照らし、官民有の区分を行ない、民有地に対し地券を発行したことにより近代的土地所有権制度が確立した。

(二) 官民有区分の際、堤塘のように公共的性質の強い土地については民有であることが否定できないような場合においても、一定の条件のもとに、なおこれを官有地に編入したのであり、この意味で官民有区分は一つの処分として土地所有権の帰属について創設的な効力を有した。

(三) 官有地編入については時期的な制限をつけて不服申立の制度が設けられたので、右時期の徒過により官有地編入の効力は確定的に生じた。

三本件各土地の開発とその所有権の取得の主張について

1  〈証拠〉によると次の事実が認められる。

(一) 徳川時代の尾張藩においては新田開発が盛んであつて、その開発形態のうちには、開発主の願出により地代金(新田開発にあたつて願主は当初領主たる尾張藩に敷金を納めていたが、寛保二年にこれを一時やめ、宝暦三年からは地代金を納めるようになつた。)の額、その支払方法、堤の築立方法、作取年数(免税期間)及び地域などを定め、領主の開発許可を得て行われていたものがあつた。

(二) 稲永新田のうち稲富新田は熱田神宮の社家栗田兵部を願主として尾張藩に地代金が支払われて開発許可を得、文政三年六二町歩余の新田が開発され、又永徳新田は熱田神宮神官大喜下総外一一名を願主として同様尾張藩に地代金が支払われて開発許可を得、文政九年二二町歩余の新田が開発され、それぞれ一定の免税期間が与えられ、そして、本件各土地も右新田の一部として開築された。

(三) 右新田の開発について稲富新田は内田鋼太郎、永徳新田は原告ら先代の岡田初蔵らが関与し、開発後も本件第一土地で堤塘の修理等をした。

以上の事実が認められる。

2  しかし、原告ら主張の右新田開発については内田鋼太郎、岡田初蔵らが実質的開発主であり、栗田兵部らは名目的願主で、その名義を借用したにすぎず、新田開発後右栗田兵部らに一定割合の土地が与えられたほかは右内田鋼太郎らが新田の土地所有権を取得したとの点については、前掲甲第三号証(「第一編稲富新田」と題する書面)、第六五号証の二(「乍恐再御歎願奉申上候御事」と題する書面)、第六七号証(「譲リ渡シ申地所添証文之事」と題する書面)によると原告ら主張の趣旨が窺われないでもないが、右甲号各証の作成経過が明らかでないし、又前掲乙イ第一八ないし第二〇号証、第二八号証の各記載は右甲号各証の記載に反するし、更に右各新田に対する尾張藩の開発許可の具体的内容に関する証文類等が証拠として存在していないから、右各新田の開発について右内田鋼太郎、岡田初蔵らの果した役割及び新田について取得した権利の内容については認定するに足りないというほかはない。

のみならず、前記二で述べたように徳川時代には土地について近代法におけるような所有権は確立していなかつたと解されるから、右新田開発当時すでに原告らの先代らが本件各土地を含む右新田について近代法におけるような所有権を取得した旨の原告らの主張はその余の点をみるまでもなく理由がない。

四明治初年における本件第一土地の所有権取得の主張について

1 明治初期の地租改正の際、従前の土地に対する支配進退の実績に照らして官民有の区分がなされ、民有地に対して地券が交付されたことは前記二で述べたとおりであり、そして、〈証拠〉によると、稲永新田のうち本件第一土地、道路、溝渠を除く耕地、宅地等は民有地第一種とされて地券が交付されたことが認められる。しかし、本件第一土地については地券の交付及び土地台帳への登載がなされたことが認められず、〈証拠〉(公図)によると、本件第一土地は公図上地番が附されていないことが認められる。

2 ところで、官民有区分の際堤塘については民有についての書面による確証がない場合は官有地第三種とされ、又確証があつても除税地は原則として官有地第三種とされ、例外的にその土地が従前民有としての実績を挙げており、地主が民有の継続を希望する場合のみ民有地とされたことは前記二で述べたとおりである。

3  原告ら主張の本件第一土地(別紙図面のとおり)は前記乙イ第一〇号証(地籍帳)、第一一号証(地籍字分全図)と対照すると、その位置、形状、距離関係、地積からして右乙イ第一〇、第一一号証記載の堤塘であることが認められ、そして、右〈証拠〉によると、右地籍帳は明治一八年三月二六日付で地主総代渡辺甚吉、岡田初之助名義で作成されているが、右地籍帳には本件第一土地(堤塘)が地番の付されていない番外地で官有地第三種と表示され、右地主総代により右の書面のとおり相違ないものとされ、更に、これに愛知郡第二一組戸長、愛知郡長による同様の添書がなされて愛知県令宛提出されていること、又右渡辺甚吉ら作成名義となつている地籍分全図には本件第一土地(堤塘)が官有地として他の民有地と別に色分けされて記載されていること、右地籍帳、地籍分全図は現在に至るもなお愛知県において県内の同様の他の土地に関するものとともに保管されていることが認められる。

従つて、右地籍帳は前記二で述べたとおり地租改正事業の一環をなす公的性質を有し、且つ県令宛に作成提出されているものであるから、その内容は信用性が高いものと考えられるところ、右作成当時本件第一土地は官有地第三種として扱われているのであり、又地籍帳の記載からすると原告らの先代である渡辺甚吉らは本件第一土地を官有地と認め、そして民有の認定、継続の希望をもつていなかつたものと認められるのである。

4 〈証拠〉(「諸願伺届指令書類書留」と題する書面)によると、明治一〇年三月二一日付稲富新田地主総代岡田初之介外三名作成名義で愛知県令宛の元稲富新田の「汐除川魚漁之儀ニ付願」と題する書面中に「右新田官地堤塘」「堤塘並汐除之儀ハ鍬下年季中……」との文言が記載されていることが認められる。右「汐除川魚漁之儀ニ付願」と題する書面中の「堤塘」は本件第一土地であると推認されるから、本件第一土地が明治一〇年当時すでに官有地として扱われていたこと及び鍬下年季中(除税中)であつたことが推測される。又新田開発当時免税期間が与えられていたことは前記三1に認定のとおりであり、いずれにしても堤塘である本件第一土地に課税されていたことを認める資料はない。

5  前記二で述べたとおり地租改正は明治一四年頃には終つていると解せられるが、本件第一土地の官民有区分の時期について前記4で述べたとおり明治一〇年以前と推測されなくはないが、その明確な時期及び前記2で述べた官民有区分の条件との関係でその具体的な経過を明らかにする資料はないが、以上に述べた諸事情特に前記地籍帳の記載からすると、本件第一土地は官民有区分におけるいわゆる「脱落地」ではなく、遅くとも右地籍帳の作成された明治一八年三月六日時点までには官有地第三種に編入されたものと推認するのが相当である。

6  そして、本件第一土地について、これが誤つて官有地に編入されたことを理由として前記二で述べた訴願又は下戻法に基づき、その期限である明治三三年六月三〇日までに下戻申請がなされたことを認めるに足りる証拠はない。

7 従つて、本件第一土地は官有地と確定したことになるから、原告らの主張はその余の点をみるまでもなく理由がない。

五本件第二土地の所有権の帰属の主張について

(一)  〈証拠〉を総合すれば次の事実が認められる。

(1) 本件第二土地を含む尾張国愛知郡旧稲富新田(以下適宜地番のみで表示する。他の土地についても同じ。)字そ八三〇番、一二町五反九畝八歩の土地について明治初期の地租改正の際、訴外先々代甚吉名義にて地券が交付された。

(2) 本件第二土地は明治九年以前は水路に囲まれた潮除地であつて、その当時は耕地と成つておらず、当時作成されていた図面中において、「荒地、一二町五反九畝八歩」と記載された土地(後に稲永新田そ八三〇番の土地となつたもの。)に含まれ、また、当時はまだ右八三〇番の土地自体が分割されておらず、同所字と三一二番、荒地一九町二反五畝八歩の土地の一部となつていた。そのころ、旧稲富新田は旧永徳新田と合せて稲永新田と称されるようになつたが明治一七年ころ作成された「地籍字分全図」(乙イ第一一号証)中においては、右「荒地、一二町五反九畝八歩」の土地の地番地目が稲永新田字そ八三〇番、荒田と変わつている。

(3) ところが、明治一八年ころ右稲永新田字そ八三〇番、荒田、一二町五反九畝八歩の土地が分筆され、同八三〇番、同八三〇番の一(道敷、一反二畝四歩)及び同八三〇番の二(用水路、三畝)の各土地となつたが、その際本件第二土地は別紙図面のように右八三〇番の一及び八三〇番の二の各土地に分断され、八三〇番の他の部分の土地と図面上連続しない形状となり、そして、明治二一年作製の稲永新田の公図(甲第七四号証)においても右分筆の形状の表示がなされたが、地番の表示については八三〇番の他の部分の土地には「八三〇番」と記載されているものの、本件第二土地部分には地番を示す記載がなされていない。なお右分筆後の明治二二年作製の旧土地台帳において右分筆による変更がなされず、従前どおり一二町五反九畝八歩と記載されていた。

(4) 右分筆後の明治二四年八月一二日に右八三〇番、一二町五反九畝八歩(当時の地目は原野)の土地は更に同土地から同番第三(八畝九歩)、同番第四(二反二七歩)同番第五(二畝一五歩)、同番第六(一畝二八歩)、同番第七(二畝二三歩)、同番第八(二畝二三歩)、同番第九(二畝一一歩)の各土地が畑として分筆され、その際七歩の丈量減があり、畦畔が合計四畝一一歩作られた結果八三〇番の土地の地積は一二町一反三畝四歩となつた。

(5) 明治三三年五月一四日、八三〇番の土地につき訴外先々代甚吉のために所有権取得の登記がなされた。

(6) その後、訴外先々代甚吉は大正四年一一月一〇日死亡し、同人の家督相続人である渡辺栄吉こと訴外先代渡辺甚吉が同人を相続し、次いで右訴外先代甚吉は昭和四年四月七日死亡し、同人の家督相続人である渡辺村吉こと訴外甚吉が同人を相続した。

(7) そして、訴外甚吉は、昭和二一年一二月、訴外大西泰助に対して八三〇番を含む稲永新田内の土地を売却した(被告管理組合の主張によれば訴外甚吉は訴外大西政雄に本権第二土地を売渡したとあるが、当時の契約書《乙イ第八ないし第一〇号証》には訴外大西泰助が売買当事者と表示されているので同人を買主と認める。)が、その契約書添付の売渡対象地を示す図面中に本件第二土地は付近一帯の養魚池に含まれているものとして表示されているし、また、その後作成された契約書においても八三〇番の土地の地積は一二町一反三畝四歩と記載されていた。

(8) 右そ八三〇番、一二町一反三畝四歩の土地は、昭和二六年六月一四日、分筆により八三〇番の一一(一一町三反五畝一九歩)と八三〇番の一二(七反七畝一五歩)の二筆の土地となり、その際従前の八三〇番の地番がそ八三〇番の一一、また地目が池沼とそれぞれ変更され、更に、昭和二六年八月二二日、右八三〇番の一一(一一町三反五畝一九歩)の土地は八三〇番の一一(五町四反五畝一九歩)と八三〇番の一三(五町九反)との二筆の土地に分筆され、昭和二七年二月二一日その旨右各登記手続がなされた。

(9) その間昭和二六年六月一五日に右八三〇番一帯の土地は前記訴外大西泰助から大西政雄こと訴外大西啓元に売渡され、そして、昭和二七年二月二一日に訴外甚吉から右大西政雄こと訴外大西啓元宛に所有権移転登記手続がなされた。

(二)  以上認定の事実に基づいて検討する。

(1) 本件第二土地はもと八三〇番の土地の一部であつたが明治一八年ころ八三〇番の土地から同番の一、二が分筆された際、同番の一、二の土地によつて従前の八三〇番の土地の他の部分と分断される結果となり、公図上右分筆に基づく形状の表示がなされたが、地番については本件第二土地部分について何らの記載がなされていないというのである。しかし、本来特定の土地が分筆によつて新たな地番の土地を生じた場合、その分割された部分以外の土地は当然従前の地番の土地に属しているものであつて、分筆の過程において無籍の土地が生ずることは考えられず、また分筆に基づく表示の錯誤があつたとしても、それによつてその土地の登記簿上表示の権利関係に何らの変動を及ぼすものではない。

なお、右八三〇番の一(道敷)、同番の二(用水路)が分筆されたのに、従前の土地である八三〇番の地積が旧土地台帳及びその後登記簿上その分の減少による変更がなされていないが(その事情は証拠上明らかではない。)、しかし、その性質上他の土地の共用部分であり、地積の大きくない右八三〇番の一、二の分筆について右地積減少の手続がなされていないからといつて、これよりもはるかに広い面積を有する本件第二土地が同様にして八三〇番の地積減少の手続がなくして無籍地となつたとすることは、根拠を欠くというべきである。

(2) 本件第二土地は訴外甚吉がこれを売却した際の前記認定の契約書の表示によると、昭和二一年ころには八三〇番及びこれから分筆された土地を含めた土地一帯は既に養魚池になつていることがうかがえるのであり、そして、本件第二土地が八三〇番(後には八三〇番の一一)の土地と別個に占有使用されてきたことを認めるべき証拠は全く存在しない。

(3) 訴外甚吉が昭和二一年ころ八三〇番一帯の土地を売却した際、同契約書添付の売渡対象地を示す図面に本件第二土地も表示されていて、本件第二土地は右売買の対象から除かれていないのである。

(4) 以上の諸点からすると、八三〇番の土地から同番の一、二の土地が分筆された際、公図上にこれを表示するについて、本件第二土地が従前の土地である八三〇番の土地に属することを表示(旧来いわゆる「めがね」と称する記号による表示)をすべきであるのに、その表示が欠落していたにすぎず、本件第二土地は八三〇番の土地に属するものというべきである。

従つて、本件第二土地が右分筆によつて八三〇番の土地と別個の無籍地となつたとは認められず、本件全証拠によるも原告ら主張の無籍地の存在は認めるに足りない。

そうすると右無籍地の存在を前提とする原告らの本件第二土地について所有権の確認を求める訴はその余の点について判断するまでもなく理由がないこととなる。

第三結語

以上の次第で、原告らの被告愛知県、同名古屋市に対する本件第一土地の所有権確認を求める訴は不適法として却下し、その余の被告らに対する本件第一土地の所有権確認を求める請求並びに被告国、同名古屋市、同区画整理施行者に対する本件第二土地の所有権確認を求める請求を各棄却し、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官林  輝 裁判官松村恒 裁判官小木曽良忠)

別紙施行者目録

渡 辺 甚 吉

大 西 泰 助

大 西 政 雄

中部電力株式会社

株式会社朝日奈鉄工所

名 古 屋 市

日本郵船株式会社

橋 本 幸 平

沢 田   巌

中 村 國 一

大 西 ヤエ子

大 西 祥 友

別表 所有持分の変遷〈省略〉

物件目録

第一、名古屋市港区稲永新田字へ二五二番五、同番四、同番三、二四三番一一、字と二七四番七、三〇四番五、同番三、同番四、字ち三〇五番二、同番七、同番一、同番五、同番六、同番四、字り三六九番三、三二一番、字つ九二六番二、字そ八三〇番一、同番一一、同番一四、同番一三、同番一二、同番一〇、同市港区字野跡一一一〇番に囲まれた

無籍地 三一、〇四六・三六五平方メートル

(別紙図面中赤線で囲まれた部分)

第二、名古屋市港区稲永新田字そ八三〇番一に囲まれた

無籍地 八、一七一・六一平方メートル

(別紙図面中あいうえあの各点を順次直線で結んだ斜線部分)

別紙図面〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例